読書メモ その2

『ちぐはぐな身体』鷲田清一ちくま文庫)より。

昨日、本来服なんか着なくても良いという話を書きましたが鷲田がイタリアの修道院の例を挙げていました。その修道院のトイレには仕切りも扉もなく、ただ仮面が置いてあるそうで、利用者は用をたす時はその仮面をつける。顔さえつけていればアレやナニは丸見えでも良いと…

本来服なんか着なくても良い。我々の身体に本質的に隠すべきものは何もない、ということなんでしょうね。

そしてもう一つ。我々は自分の身体が見えず、常にイメージとして捉えているという話を書きました。これについて鷲田は例えば、暖かいシャワーを浴びたり、好きな人と皮膚を重ねると心地が良いことから、我々は皮膚から自分の身体性の確固たるイメージを得るのだ、と説を補強します。

少し前に映画「失楽園」を見ました。映画内にこんなシーンがあります。不倫を重ねる男女が出てくるのですが、行為中に女性が「あなたの皮膚か私の皮膚かわからなくなってきた」といったようなことを言います。

我々の外縁である皮膚の境界がわからなくなるほどの深い愛というものが存在するということなんでしょうか。私にはまだまだ恋愛経験が足りません。でも、本当の愛ってそういうものなのかもしれませんね。自分を犠牲にしても良いとか相手を極限まで深く知りたいとか、そういう愛を私も経験することがこの先あるんでしょうか。

ここで、外縁としての皮膚という話をしましたが、ここまでが私で、ここからは私じゃないと決めるのは難しいです。鷲田のアイデアを借りると、裸の時は間違いなく皮膚のウチとソトで線引きができます。(皮膚といっても多層構造になっていますが、ここで考えるのはひとまず常識の範囲内の皮膚です。)

でも服を着ている時皮膚のすぐソト(服のウチ)は我々にとってはパーソナルな空間ではないでしょうか。隣の人が急に服に手を入れてきたら驚きますよね。つまり、我々にとってソトかウチか、自分か自分じゃないか、は変わりうるということです。

他にも鷲田はこんな考えるヒントを与えます。我々にとって汚いものと汚くないものとはなんでしょうか。例えば、うんちはほとんどの人が汚いと感じると思います。でも、おそらく今
自分も、自分の周りにいる人もみんなお腹の中にうんちを持っていますが、だからといってなんか汚いなぁとはなりませんね。うんちは自分のウチなのかソトなのか。

他にも、犬を食べる。と聞くとどんな気分でしょうか。犬が家畜なのか家族のような存在なのか、犬の立ち位置が曖昧です。犬も自分のウチなのかソトなのか。

こういうソトかウチかわからないものに対して我々は拒絶感を感じると鷲田は分析します。
この拒絶感と自分か自分じゃないか、つまり自分の存在、自分って何?という意識と深いつながりを持っているのかもしれませんね。