読書メモ その3

『ちぐはぐな身体』鷲田清一 (ちくま文庫)より。



鷲田は文化とは「自然の加工であり、その加工している事実をあたかも自然であるかのように錯覚させること」と定義しています。例として、「人間は生まれつきもっている発声を、わざわざ限られた数の母音の音韻体系にに変換してしまうことであ、言葉というものを発明する」と言います。

日本古来の文化である茶の湯や花道もそうかもしれません。ふつうに飲めば良いものをいろんな格式に従って飲む、その辺に咲いてる花じゃなくて切り方がや置き方を工夫して一つの作品を作る…と言った具合に。

服飾の文化もこの定義に従って、我々にあった服を作っているのではなくなにかのモデルがあり、そこに私たちが身体を変形せしめ、合わせているのだといいます。

もちろん、はじめは寒さをしのいだり怪我をしないように保護しよう、ということから布を身につけたのだと想像できますが、そこから我々は何かの工夫を凝らしたくなったようです。

大きな身体を持っていたり、より派手な羽を持つ方がモテると言ったように、動物界でも身なり、ルックスが子孫繁栄に重要な役割を果たしていることがあります。それと同じで人類も他の人と同じではいけない、と言った具合に服に工夫を凝らし始めたのだと思います。動物の例と違うのは、自己表現が多彩になったということは必ずしも異性によく見られる方向にみんな走ったということではないということです。

突然ですが、ここである団体を紹介します。Everybody can be a model.という京大生を中心にした団体です。SPEC(Student Projects for Enhancing Creativity)という京大のプログラムに参加している団体だそうですね。urlを貼っておきます。

いわゆる”モデル”らしい人じゃなくてもファッション雑誌に載っても良いだろうみたいな運動をしているそうです。この団体に限らず、社会に何らかのメッセージを発信できる人ってカッコ良いと思います。ましてや大学生で。

団体の紹介に「美しさの基準は多様で良い」と言ったことが書かれています。たしかにそうですね。私たちが美しいと感じているのも実は自然を変形せしめて形成された「文化」なのかもしれないと気づかされました。美の基準が変化することは広く言われていますしね。

美しさはこうだ、とか、我々の存在はこうでなければならない、とかその根拠はあるんでしょうか?生きることの意味や根拠はおそらく存在しない、我々にはわからないというのが正しいと思います。

だからこそ、存在が凝り固まっている必要はない。私たちはちぐはぐで良い。というメッセージを感じます。

この本で知ったのですが九鬼周造の『をりにふれて』に「私が生れたよりももっと遠いところ、そこではまだ可能が可能であったところ」というフレーズが出てくるそうです。

歳を取るとだんだん夢を持た(て)なくなります。でも、本当に絶対にどんな手段を使っても不可能なことなんてそうそうないと思うし、夢は持つべきだと思います。自分には無理だとか、なんとなく、自分の可能性を狭めてしまうことはよくあります。でも、そんな時こそ”ちぐはぐさ”を持ちたいです。

ちぐはぐという言葉の暗に否定的なニュアンスから、気分屋でも良いとかポンポン方向転換すれば良いとか、というように誤解してしまいそうですが、そうではありません。今までの自分はこうだったから、おそらくあんな自分にはなれないだろう、とか、自分はこれくらいで小さくとどまっていよう、とかそういうことを考える必要は全くないということです。

時間が無制限にあれば、あるいは、若さや体力がそこをつきなければ、どんなことも必ず達成できます。しかし実際はそうではありません。だから、生きることの難しさ、夢を持つことの反作用が常に付きまとうことも忘れてはいけません。矛盾しているようですが、何もせず楽な道を選ぶより、チャレンジする心で厳しい道を選ぶ人生の方が、例え失敗したとしても、ほかの誰でもなく「あなたの」人生だと言えるのではないでしょうか。