読書メモ5

『ここにないもの』 野矢茂樹 (中公文庫)

 

書き方がやさしそうな哲学書?のようなものを読み始めました。エプシロンとミューの二人が対話する形で”何か大切なこと”について語りかける本です。

 

冒頭の紹介文に気にいった文があったのでメモすると、

「ぽい」言葉を使うと、書いている人も読んでいる人も「ぽい」言葉が出てきたとたん「ぽい」気分におなってしまって、すっかり満足してしまう

というものです。

 

理系の論文を読んでいると専門用語や略語がたくさん出てきますが、これは現象を厳密に記述するためにしょうがないのかなと思います。でも、幸せとか人生とかに関わる”何か大切なこと”は、それを表す言葉が1対1で対応しているとは限らないから、何気ない言葉で、じゅうぶんな時間をかけて伝える必要があるのかもしれません。

読書メモ その4

『自殺について』原作 ショーペンハウアー (講談社まんが学術文庫) より

 

まんが版を読んで岩波の原典読むつもりが挫折しました。。。自殺についてというタイトルですが、自殺するなというメッセージの本です。

 

多分言いたい事(ショーペンハウアーというよりまんがのプロットを書いた人の)は死は生の一部だ、ということだと思います。というか頑張りすぎたらいけないみたいなことをこねくり回して書いてるだけなんじゃないかとか思いました。

 

「意志」(努力)は常に人を不幸にするというようなことが書いてありました。意志があって努力しても報われなければ悲しいし、報われたとしても報われると今度は「退屈」という苦痛に襲われるためだと言います。

 

どうなっても自分の脳に「悪魔」が苦痛や苦悩を映し出す。その「悪魔」からの解脱、つまり気にしなくなること?が人生の究極の目標だと言います。

 

あとおっと思ったのは、ヒトは社会の一員からはぐれないために自分の思考を消して他人の思考にあわせて、苦悶するという表現は確かになと思いました。

 

辛いことも自分の成長だと思って我慢する(自分を他者にあわせる)のか逃げるのかの判断は難しいですが、真面目な人ほど我慢して自分を殺してしまう→自殺する。

 

ん~微妙かな、正直?

本物の方も読む気力湧いたらまた書きます。多分まんが版ははしょりすぎてて浅い感じがしました。

読書メモ その3

『ちぐはぐな身体』鷲田清一 (ちくま文庫)より。



鷲田は文化とは「自然の加工であり、その加工している事実をあたかも自然であるかのように錯覚させること」と定義しています。例として、「人間は生まれつきもっている発声を、わざわざ限られた数の母音の音韻体系にに変換してしまうことであ、言葉というものを発明する」と言います。

日本古来の文化である茶の湯や花道もそうかもしれません。ふつうに飲めば良いものをいろんな格式に従って飲む、その辺に咲いてる花じゃなくて切り方がや置き方を工夫して一つの作品を作る…と言った具合に。

服飾の文化もこの定義に従って、我々にあった服を作っているのではなくなにかのモデルがあり、そこに私たちが身体を変形せしめ、合わせているのだといいます。

もちろん、はじめは寒さをしのいだり怪我をしないように保護しよう、ということから布を身につけたのだと想像できますが、そこから我々は何かの工夫を凝らしたくなったようです。

大きな身体を持っていたり、より派手な羽を持つ方がモテると言ったように、動物界でも身なり、ルックスが子孫繁栄に重要な役割を果たしていることがあります。それと同じで人類も他の人と同じではいけない、と言った具合に服に工夫を凝らし始めたのだと思います。動物の例と違うのは、自己表現が多彩になったということは必ずしも異性によく見られる方向にみんな走ったということではないということです。

突然ですが、ここである団体を紹介します。Everybody can be a model.という京大生を中心にした団体です。SPEC(Student Projects for Enhancing Creativity)という京大のプログラムに参加している団体だそうですね。urlを貼っておきます。

いわゆる”モデル”らしい人じゃなくてもファッション雑誌に載っても良いだろうみたいな運動をしているそうです。この団体に限らず、社会に何らかのメッセージを発信できる人ってカッコ良いと思います。ましてや大学生で。

団体の紹介に「美しさの基準は多様で良い」と言ったことが書かれています。たしかにそうですね。私たちが美しいと感じているのも実は自然を変形せしめて形成された「文化」なのかもしれないと気づかされました。美の基準が変化することは広く言われていますしね。

美しさはこうだ、とか、我々の存在はこうでなければならない、とかその根拠はあるんでしょうか?生きることの意味や根拠はおそらく存在しない、我々にはわからないというのが正しいと思います。

だからこそ、存在が凝り固まっている必要はない。私たちはちぐはぐで良い。というメッセージを感じます。

この本で知ったのですが九鬼周造の『をりにふれて』に「私が生れたよりももっと遠いところ、そこではまだ可能が可能であったところ」というフレーズが出てくるそうです。

歳を取るとだんだん夢を持た(て)なくなります。でも、本当に絶対にどんな手段を使っても不可能なことなんてそうそうないと思うし、夢は持つべきだと思います。自分には無理だとか、なんとなく、自分の可能性を狭めてしまうことはよくあります。でも、そんな時こそ”ちぐはぐさ”を持ちたいです。

ちぐはぐという言葉の暗に否定的なニュアンスから、気分屋でも良いとかポンポン方向転換すれば良いとか、というように誤解してしまいそうですが、そうではありません。今までの自分はこうだったから、おそらくあんな自分にはなれないだろう、とか、自分はこれくらいで小さくとどまっていよう、とかそういうことを考える必要は全くないということです。

時間が無制限にあれば、あるいは、若さや体力がそこをつきなければ、どんなことも必ず達成できます。しかし実際はそうではありません。だから、生きることの難しさ、夢を持つことの反作用が常に付きまとうことも忘れてはいけません。矛盾しているようですが、何もせず楽な道を選ぶより、チャレンジする心で厳しい道を選ぶ人生の方が、例え失敗したとしても、ほかの誰でもなく「あなたの」人生だと言えるのではないでしょうか。


読書メモ その2

『ちぐはぐな身体』鷲田清一ちくま文庫)より。

昨日、本来服なんか着なくても良いという話を書きましたが鷲田がイタリアの修道院の例を挙げていました。その修道院のトイレには仕切りも扉もなく、ただ仮面が置いてあるそうで、利用者は用をたす時はその仮面をつける。顔さえつけていればアレやナニは丸見えでも良いと…

本来服なんか着なくても良い。我々の身体に本質的に隠すべきものは何もない、ということなんでしょうね。

そしてもう一つ。我々は自分の身体が見えず、常にイメージとして捉えているという話を書きました。これについて鷲田は例えば、暖かいシャワーを浴びたり、好きな人と皮膚を重ねると心地が良いことから、我々は皮膚から自分の身体性の確固たるイメージを得るのだ、と説を補強します。

少し前に映画「失楽園」を見ました。映画内にこんなシーンがあります。不倫を重ねる男女が出てくるのですが、行為中に女性が「あなたの皮膚か私の皮膚かわからなくなってきた」といったようなことを言います。

我々の外縁である皮膚の境界がわからなくなるほどの深い愛というものが存在するということなんでしょうか。私にはまだまだ恋愛経験が足りません。でも、本当の愛ってそういうものなのかもしれませんね。自分を犠牲にしても良いとか相手を極限まで深く知りたいとか、そういう愛を私も経験することがこの先あるんでしょうか。

ここで、外縁としての皮膚という話をしましたが、ここまでが私で、ここからは私じゃないと決めるのは難しいです。鷲田のアイデアを借りると、裸の時は間違いなく皮膚のウチとソトで線引きができます。(皮膚といっても多層構造になっていますが、ここで考えるのはひとまず常識の範囲内の皮膚です。)

でも服を着ている時皮膚のすぐソト(服のウチ)は我々にとってはパーソナルな空間ではないでしょうか。隣の人が急に服に手を入れてきたら驚きますよね。つまり、我々にとってソトかウチか、自分か自分じゃないか、は変わりうるということです。

他にも鷲田はこんな考えるヒントを与えます。我々にとって汚いものと汚くないものとはなんでしょうか。例えば、うんちはほとんどの人が汚いと感じると思います。でも、おそらく今
自分も、自分の周りにいる人もみんなお腹の中にうんちを持っていますが、だからといってなんか汚いなぁとはなりませんね。うんちは自分のウチなのかソトなのか。

他にも、犬を食べる。と聞くとどんな気分でしょうか。犬が家畜なのか家族のような存在なのか、犬の立ち位置が曖昧です。犬も自分のウチなのかソトなのか。

こういうソトかウチかわからないものに対して我々は拒絶感を感じると鷲田は分析します。
この拒絶感と自分か自分じゃないか、つまり自分の存在、自分って何?という意識と深いつながりを持っているのかもしれませんね。

読書メモ その1

『ちぐはぐな身体』鷲田清一ちくま文庫)より。

ちぐはぐという言葉は鎮具(金槌)と破具(くぎぬき)を同時に使うこと、から転じて物事が食い違ったり調和していなかったりすること、を意味します。

鷲田は我々の身体をちぐはぐだ、と表現します。そんなことを言っても我々は自分の身体をしっかり感じています。そんな身体が食い違う、調和しなくなることってあるんでしょうか?

我々は自分を直接見ることができません。鏡を使ってもそれは鏡を見ようと思って構えた自分なのであって、本当に他人が見ている自分を見ることはできません。

でも、視界の中に必ず自分の身体は現れるように、我々はこの身体と離れることはできません。だから、我々は直接見ることのできない自分をイメージとして、想像して捉えます。そのイメージの補強として我々は服を用いて色々揺さぶりをかけます。

こんな服を着たら他の人はどう思うだろう?とか考えながら自分のイメージを揺さぶり、他人の反応を伺い自分を知ります。この一連の流れの中に自分の身体が変わっていく‘ちぐはぐさ’があるのだと思います。

もちろん、服になんか全く気を使わないというひともいると思います。しかしそんな人でも知らず知らずの上である程度の社会の了解としての服を身につけるのではないでしょうか。若者らしい服、女らしい服、冠婚葬祭の服…などというように。

もっと言うなら本当に気を使わないなら服なんか着なくても良いのではないかということもできます。服を着てなくて恥ずかしいと思うのも社会の要請からなのであって、大昔のヒトなら裸でもなんの気なしに過ごしていたと思います。もちろん、わいせつ罪で捕まるとか、そういう心配もあるとは思いますが、そういう心配も結局は他者との折り合い(逮捕されたら家族や親戚に迷惑がかかる、他者からの信用がなくなる)の中から生まれるものだと思います。

オシャレ云々ではなく、我々は自分を知るために服を身につけるといっても過言ではないと言うことです。

今日はひとまずこの辺で。

はじめまして

ブログというものを始めて書きます。gunyoです。

ブログを始めようと思ったきっかけは予備校講師今井宏さんのブログです。

新聞やテレビで流れてくる情報は誰でも知ってる。つまり、情報としての価値が薄い。誰も知らない、役にたつとは思えない、世界の隅に埋まっているような情報にこそ情報としての価値がある。(「役に立たない情報の発酵」)
といった内容です。

私もこの言葉に感化されて何か言葉を残していきたいと思うようになりました。

役に立つか立たないか、有益か有益じゃないかは、今、ここ、決まるものではありません。だから、今すぐ誰かの役に立つ情報を届けたいとかではなく、自分のライフワークとして日々思うことや読書日記をつらつらと書いていこうと思います。そうして残していった私の言葉の中に誰かにとって(私含めて)、少しでも何か輝くものがいつか見つかれば幸いです。