読書メモ その1

『ちぐはぐな身体』鷲田清一ちくま文庫)より。

ちぐはぐという言葉は鎮具(金槌)と破具(くぎぬき)を同時に使うこと、から転じて物事が食い違ったり調和していなかったりすること、を意味します。

鷲田は我々の身体をちぐはぐだ、と表現します。そんなことを言っても我々は自分の身体をしっかり感じています。そんな身体が食い違う、調和しなくなることってあるんでしょうか?

我々は自分を直接見ることができません。鏡を使ってもそれは鏡を見ようと思って構えた自分なのであって、本当に他人が見ている自分を見ることはできません。

でも、視界の中に必ず自分の身体は現れるように、我々はこの身体と離れることはできません。だから、我々は直接見ることのできない自分をイメージとして、想像して捉えます。そのイメージの補強として我々は服を用いて色々揺さぶりをかけます。

こんな服を着たら他の人はどう思うだろう?とか考えながら自分のイメージを揺さぶり、他人の反応を伺い自分を知ります。この一連の流れの中に自分の身体が変わっていく‘ちぐはぐさ’があるのだと思います。

もちろん、服になんか全く気を使わないというひともいると思います。しかしそんな人でも知らず知らずの上である程度の社会の了解としての服を身につけるのではないでしょうか。若者らしい服、女らしい服、冠婚葬祭の服…などというように。

もっと言うなら本当に気を使わないなら服なんか着なくても良いのではないかということもできます。服を着てなくて恥ずかしいと思うのも社会の要請からなのであって、大昔のヒトなら裸でもなんの気なしに過ごしていたと思います。もちろん、わいせつ罪で捕まるとか、そういう心配もあるとは思いますが、そういう心配も結局は他者との折り合い(逮捕されたら家族や親戚に迷惑がかかる、他者からの信用がなくなる)の中から生まれるものだと思います。

オシャレ云々ではなく、我々は自分を知るために服を身につけるといっても過言ではないと言うことです。

今日はひとまずこの辺で。